真に勝つとは、己に克つこと也と揺籃の頃に習う。
何物をも超克する不動心、寂静の境地にも近い精神を持ちさえすれば、勝ち負け他一切卑小であろう。かのように、精神方面に技巧鍛錬系を伸ばしたもの「道」と呼ぶ。武道の奥義は戦わずして相手を圧倒することであるが、究極は武すら不要であるという。武道武芸に身を置く者として、何とも腑に落ちぬが、この頃はそうした鍛錬の結果ではなく、専らのところ勝敗に対する拘りの無さから期せずそうした境地の既視感に陥るに至る。しかれども、到達点が同じだけであって、その導入が違うゆえに受け取る価値が大きく異なる。
極めて観念的直感的に表すならば「零は有、零は無」の違いである。
ここまで到達したのであるが、近頃は身を切る以上に身銭を切る必要に迫られ、日々試練に投げ込まれる内、精神的な揺らぎから煩悩の火がまた燃え始めてきたように思える。煩悩は一方で人を人足らしめる。浮世に揉まれる内に、久方ぶりに、半死半生の者から人間に戻ったようだ。
何物をも超克する不動心、寂静の境地にも近い精神を持ちさえすれば、勝ち負け他一切卑小であろう。かのように、精神方面に技巧鍛錬系を伸ばしたもの「道」と呼ぶ。武道の奥義は戦わずして相手を圧倒することであるが、究極は武すら不要であるという。武道武芸に身を置く者として、何とも腑に落ちぬが、この頃はそうした鍛錬の結果ではなく、専らのところ勝敗に対する拘りの無さから期せずそうした境地の既視感に陥るに至る。しかれども、到達点が同じだけであって、その導入が違うゆえに受け取る価値が大きく異なる。
極めて観念的直感的に表すならば「零は有、零は無」の違いである。
ここまで到達したのであるが、近頃は身を切る以上に身銭を切る必要に迫られ、日々試練に投げ込まれる内、精神的な揺らぎから煩悩の火がまた燃え始めてきたように思える。煩悩は一方で人を人足らしめる。浮世に揉まれる内に、久方ぶりに、半死半生の者から人間に戻ったようだ。
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