「頭の良い人は、人に物事を説明するのが上手い」
昔から大手を振っている説だが、現実には、
「人に物事を説明するのが上手い人は、頭がいい」とは言えても、
「頭の良い人は、人に物事を説明するのが上手い」とは限らない。
まず、人に物事を説明するのに必要な能力とは、記憶力、理解力、理論構築力、そしてコミュニケーション能力で構成されている。頭脳労働における殆どの分野を動員するので、これがスムーズに出来る人は「頭が良い」と言える。
注意しなくてはならないのはコミュニケーション能力で、知の深層を潜るいわゆる「専門家」と言われる人々でも、これが必ずしも高いとは言えず、また知的に高度な話ほど、説明される側にも理解力(知的原資)が要求される。
例えば、素粒子理論の専門家にその研究結果をどんなに簡単に説明させても、
一般人には理解の土台が無いので、1ミリの理解もされない。この知的ギャップによる悲劇は、そもそも説明を受ける側のキャパシティーを遥かに超えている事と、説明をする側の真摯さ(馬鹿正直な丁寧さ)によって発生する。
この場合、うまく説明するには、元の情報を雛型レベルまで削ぎ落とし、
何となく話のニュアンスを掴ませる事である。どうせ相手は深く理解できないし、それが何かの役に立つ訳でもないので、輪郭程度の情報量で十分なのだ。
テレビのニュースも、アインシュタインの一般公開講義も、
「どうせ相手は深く理解できないし」という優しさによって成り立っている。
多少知っている人からは、事実を若干歪曲させた「嘘」だと突っ込みを受けようが、目的が分かりやすさの追求の果てなので、暴論なのは100も承知である。
頭の良さとは、頭脳処理の特化性である。頭脳処理には分野があり、「説明が上手い」は「頭の良さ」を示す一指標に過ぎない。それが恰も頭の良さの条件のように言われるようになってしまったのは、「より広汎に認知されやすい」という特性の為だろう。逆に、人間誰しも理解できないものは認め難い。馬鹿も天才も理解しにくい、従って紙一重という訳だ。
勿論、これを思いついた人も、それらは100も承知であったろうが。
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