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怪雨(あやしのあめ)
市中に小雨に混じりて大量の獣毛が降りき。
にほひは白ないしは赤、長さ五寸から一尺三寸、
太さは馬の尾の毛ほどでありき。
人皆怪しがりて怪雨と呼びき。 「和漢三才図会」
市中に小雨に混じりて大量の獣毛が降りき。
にほひは白ないしは赤、長さ五寸から一尺三寸、
太さは馬の尾の毛ほどでありき。
人皆怪しがりて怪雨と呼びき。 「和漢三才図会」
娑婆とは煩悩と苦痛に満ちた現世を言い、又は忍土と言う。
生まれ落ちて六十八年。苦悩と忍従は、併し余生を生くると成りては些事瑣末。係累の死による愁傷も漫ろ過ぎ去り、知らず己の番である。
来世の形は知らねども、己が己であるのは今生一度。家、村、国。和を失いその孰れにも属せぬ己を看取するに至り、己とは何か。
かつて剣を奪われた。
この余生に、今一度剣を取る。
生まれ落ちて六十八年。苦悩と忍従は、併し余生を生くると成りては些事瑣末。係累の死による愁傷も漫ろ過ぎ去り、知らず己の番である。
来世の形は知らねども、己が己であるのは今生一度。家、村、国。和を失いその孰れにも属せぬ己を看取するに至り、己とは何か。
かつて剣を奪われた。
この余生に、今一度剣を取る。
真に勝つとは、己に克つこと也と揺籃の頃に習う。
何物をも超克する不動心、寂静の境地にも近い精神を持ちさえすれば、勝ち負け他一切卑小であろう。かのように、精神方面に技巧鍛錬系を伸ばしたもの「道」と呼ぶ。武道の奥義は戦わずして相手を圧倒することであるが、究極は武すら不要であるという。武道武芸に身を置く者として、何とも腑に落ちぬが、この頃はそうした鍛錬の結果ではなく、専らのところ勝敗に対する拘りの無さから期せずそうした境地の既視感に陥るに至る。しかれども、到達点が同じだけであって、その導入が違うゆえに受け取る価値が大きく異なる。
極めて観念的直感的に表すならば「零は有、零は無」の違いである。
ここまで到達したのであるが、近頃は身を切る以上に身銭を切る必要に迫られ、日々試練に投げ込まれる内、精神的な揺らぎから煩悩の火がまた燃え始めてきたように思える。煩悩は一方で人を人足らしめる。浮世に揉まれる内に、久方ぶりに、半死半生の者から人間に戻ったようだ。
何物をも超克する不動心、寂静の境地にも近い精神を持ちさえすれば、勝ち負け他一切卑小であろう。かのように、精神方面に技巧鍛錬系を伸ばしたもの「道」と呼ぶ。武道の奥義は戦わずして相手を圧倒することであるが、究極は武すら不要であるという。武道武芸に身を置く者として、何とも腑に落ちぬが、この頃はそうした鍛錬の結果ではなく、専らのところ勝敗に対する拘りの無さから期せずそうした境地の既視感に陥るに至る。しかれども、到達点が同じだけであって、その導入が違うゆえに受け取る価値が大きく異なる。
極めて観念的直感的に表すならば「零は有、零は無」の違いである。
ここまで到達したのであるが、近頃は身を切る以上に身銭を切る必要に迫られ、日々試練に投げ込まれる内、精神的な揺らぎから煩悩の火がまた燃え始めてきたように思える。煩悩は一方で人を人足らしめる。浮世に揉まれる内に、久方ぶりに、半死半生の者から人間に戻ったようだ。
修験者は山伏とも言い、名の通り山に伏せ修行を行う。
その腑は「悟り」の教えと、山岳に対する自然崇拝の混合体であり、修行と山岳への崇拝により 「悟り」を得ることを目的とする。その道程に、例えば法力・道力といった霊験(験徳)の開眼、衆人の救済といった一般的に想像される修験道の実践者が存在する。一方で、霊験の開眼しない者、修行に没頭し目的を忘れる者、教裏の闇に呑まれ邪教徒に化する者も存在し、総体として修験道とは極めて混沌としたものと言わざるをえない。
また彼らの行は、世間と隔絶された場所で営まれ、その詳しい実態は不明である。この秘密主義を皮肉り、物の怪「天狗」の名を当て呼ぶようになる。後世、この天狗と修験者が交わり、現在の天狗像に至った。
その腑は「悟り」の教えと、山岳に対する自然崇拝の混合体であり、修行と山岳への崇拝により 「悟り」を得ることを目的とする。その道程に、例えば法力・道力といった霊験(験徳)の開眼、衆人の救済といった一般的に想像される修験道の実践者が存在する。一方で、霊験の開眼しない者、修行に没頭し目的を忘れる者、教裏の闇に呑まれ邪教徒に化する者も存在し、総体として修験道とは極めて混沌としたものと言わざるをえない。
また彼らの行は、世間と隔絶された場所で営まれ、その詳しい実態は不明である。この秘密主義を皮肉り、物の怪「天狗」の名を当て呼ぶようになる。後世、この天狗と修験者が交わり、現在の天狗像に至った。

